「神がかり」という言葉

フランス出張からかえってきた。

主張先は、東部の古都、ストラスブール。国際学会への出席が目的である。

仕事がオフの時間は、ストラスブールの街をいろいろと歩き回った。もちろん観光は出張目的ではないが、いろいろと見聞を広めるのは、会社人としてより人間としての成長に必要だろう。

一番感銘を受けたのは、大聖堂(カテドラル)だった。

巨大な尖塔、凄まじい数の聖人の彫像、神秘的なステンドグラス。ヨーロッパの歴史と伝統の集大成とも言えるゴシック建築は、私の心に大きな衝撃を与えた。

日本で観光ガイドブックなどをみていたときは、歴史の重みというのが、これら古い建築物に美と荘厳さを与えているのだとばかり思っていた。しかし、本物をみて分かったのは、歴史だけで自分の受けた衝撃は説明できない、ということだった。私の心に衝撃を与えたのは、ヒトの信仰心、それも「本物の」信仰心だったのだと思う。

ヒトの能力というのは、それを引き出すためのドライビングフォースが必要である。そして、中世ヨーロッパでその役割を果たしたのは宗教であり、神への献身だった。中世のヒトの能力は、現在に比べれば遥かに非力である。その中で、最大の能力を引き出した宗教・信仰心の威力はすさまじい。まさに「神がかり」という言葉がふさわしい。

今のヒトは、高度な建設技術を持っているとされている。しかし、技術だけでは、建物に神がかり的な魅力を与えることはできない。新興宗教が信者から多額の金を集め、巨大な教団施設を作ったりすることがある(そして、その手の建物が身の回りにあったりする)。しかし、それらに荘厳さという物は感じない。豪華だが、荘厳ではなく、表面だけの凄さだ。信者は、教祖の言葉には忠実かもしれないが、中世のキリスト教信者ほどの真の信仰心、というものは、実は持ち合わせていないのかもしれない。

今回の出張では、仕事でもプライベートでも、さまざまなことを得ることができた。研究以外の世界でも、新しいことを知るというのはうれしいものである。このうれしさを、これからの自分の糧にして行きたい。